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長戸大幸

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長戸 大幸(ながと だいこう 本名:ながと ひろゆき)とは、日本の音楽プロデューサー。ミュージシャン。シンガーソングライター、作曲家、作詞家、編曲家、ギタリスト、ドラマー。音楽制作会社「ビーイング」の創業者。企業経営者、不動産投資家、資産家。1948年4月6日生まれ、滋賀県大津市出身。年齢74歳。BOØWY、TUBE、B’z、ZARD、T-BOLAN、WANDS、大黒摩季、倉木麻衣など数々のアーティストをプロデュースしたことで知られる。

来歴

滋賀県大津市で、両親が公務員として働く家庭に、三兄弟の長男として生まれる。3歳から両親の薦めでバイオリンを習い始め、大津市の有志による「大津少年管弦楽団」に入る。バイオリンは、中3の頃まで弾いていた。※一部の書籍では高2までという記述もある。

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中学生の頃にはジャズ喫茶に通い出し、マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンクなどのニューヨークのビバップ(bebop)系のジャズに傾倒。また、同時にいわゆる”オールディーズ”と呼ばれている1962年~1963年の洋楽にも影響を受け、自身の音楽的ルーツを形成し始めた。

高校入学の1ヶ月ほど前にビートルズが登場(シングル盤「Please Please Me」リリースなど)し、夏休みに自ら「ポップスクラブ」という軽音楽部を設立。(しかし当初は、表面上”クラシックギターの同好会”という名目にしていた。)初めてのギターは、高校入学記念に母親に買ってもらったクラシックギターだったという。

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当時長戸は書道部とサッカー部に入部していたが、創部までの様々な障壁がある中で、署名を集めたり、場所や備品を確保したり、書道部の先生に顧問になってもらったりするなど、アクティブに、政治的とも言える動きを見せた。また、サッカー部の1学年上の先輩・ポール岡田とビートルズなどの話で意気投合して初めてバンドを結成し、その後高校卒業までに、合計7つほどのバンドを組んだ。(そのいずれでも、メンバーが引き抜かれるなどして、バンドリーダーの立場を担った。)

滋賀県立膳所高等学校に在学中に、グループサウンズブームが到来。長戸は日本のムーブメントの中心地・東京に憧れ、”バンドをやろう”と、大学入学時に上京を目指した。

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そして、当時第四、第五志望だったという青山学院大学経営学部に合格。なお学業には力を入れていなかった模様で、卒業間際に学年内で3人で補習を受けさせられ、辛うじて長戸のみ卒業を果たした。

ところが、無事上京を果たしたものの、グループサウンズブームはわずか数年間で終焉。また、大学を仮面浪人するつもりであったというが、当時学生運動が勃発し大学が休講になったため、京都でフォークシーンに入り込もうと画策。「バンバン」(ヴォーカル:ばんばひろふみ)、「ジローズ」、北山修(元「ザ・フォーク・クルセダーズ」)らと親しくなった。なお大学は、2年~3年の頃に中退した。
また一方で、東京でいずみたくの事務所に居候していた関係で、いずみが立ち上げたテイチクレコードのブラック・レーベルから、同志社大学の学生2人と長戸で「赤と黒」というフォークロックバンドでデビュー。シングルレコード「Mr.D.J.」を1972年にリリースした。(当時のディレクターは、立川直樹だった。)

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しかし現役で大学に通う友人メンバーへの配慮もあり、レコードをリリースした後、就職前にバンドは解散。そこで長戸は、京都で、洋服屋(ブティック)「BAL」を経営し始めた。(当時20~21歳頃)また長戸は、洋裁学校「藤川学園」(現:京都造形芸術大学)にも入学。2年間通って裁縫やデザインを学び、生計を立てられるようになった。またブティックと共に、寺町に注文生産のアトリエを作ったという。他にも当時、縫製工場、小さなサパークラブを経営していた。

またこの頃滋賀と京都で、友人と2人で「ビー企画室」という会社を立ち上げ、デザイン関係の仕事を行っていたが、友人が23歳頃にガンにより急逝してしまったという。後のビーイング設立には、この志を継ぎたい、という想いもあった。(なお同社内には、同名の会社が存在している。)

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そして25~26歳の頃、人生の転機が訪れる。当時、洋服屋経営で一定の収入があり、結婚をする予定の恋人がいて、友人もいる、といったいわゆる”小市民的な生活”が続く状況だったが、これについてどこか思うところがあったという。そんなある時、ファンであった吉田拓郎の楽曲「こうし心 ’73」を聴き、歌詞に衝撃を受けた。そして、当時結納まで済ませていたという恋人との婚約を白紙にした。また友人関係や仕事も全て捨て、車1台と100万円持って1975年、再び上京した。なおこの時、1回目の上京時とは異なり、矢沢永吉、井上陽水などがミュージシャンシーンで成功を収めていたことから、音楽で生計を立てるイメージが湧き始めていたという。ちなみにブティックを辞めた理由としては、オイルショックによる不景気の影響もあった。

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上京後は、友人がいなかったためタクシー運転手と知り合いになるなど独自の手法を用い、わずか数日でやしきたかじん、西濱哲男、アンディ小山、佐藤秀光と出会う。そして西濱が友人の星加哲を紹介し、星加が同級生の妹尾隆一郎を紹介したことで、長戸は妹尾のマネージャーを務めることになる。(後に、マネージメントオフィス「BIG MUSIC」を設立。)
そしてTBS系の番組「ぎんざナウ!」に妹尾の売り込みを仕掛けることを考え、制作会社の一つであった「オフィス・トゥー・ワン」に直接アプローチ。そこで「オフィス・トゥー・ワン」の別会社「ユニオン出版」に勤めていた月光恵亮(ビーイング元副社長)と出会った。
そこから月光の薦めもあり、また作詞家・阿久悠にも認められ、「オフィス・トゥー・ワン」に、作曲家として所属。(ちなみに同事務所には、当時、中島薫、都倉俊一、井上忠夫 ※後の井上大輔、森田公一ら錚々たる作曲家が在籍していたという。)

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一方、この頃、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるが「フォーライフ・レコード」を設立し新人をプッシュするというニュースを喫茶店の漫画雑誌で見た長戸は、吉田拓郎のモノマネをして作った楽曲のテープを作り、「第1回新人オーディション」に応募した。(つまり、これらのことを同時並行で行っていたことになる。)すると約5万人の中から、上位10人の中に選ばれることになった。そして後日、吉田、井上、泉谷、小室等の前で実際に歌うことになり、そこで気に入られて上位4人の候補に入賞。その結果、フォーライフ・レコードから新人アーティストとしてデビューすることになった。

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そして1977年、新人ツアー「FORLIFE Fresh Forward FESTIVAL」への参加とレコード「軽い気持で」のリリースが決定していたが、長戸は、1回出演した後にツアーを途中で辞退。また、レコードのリリースは、発売2週間前に見送られることになった。(なお、「軽い気持で」のテスト盤は存在している。)その理由は、当時、「フォーライフ・レコード」では内紛が起こっており、泉谷しげる、後藤由多加らが会社を辞めようとしていたこと、また当時自らがアーティストよりも後藤ら裏方スタッフの方がかっこいいと感じていたこと、そして自身の年齢がすでに28歳となっており、新人アーティストとして世の中に出ることの違和感を感じていたこと、などが挙げられる。そして同時にこの時、長戸は「もう表に出るのは絶対にやめよう」と決断した。

また、この裏方になったタイミングで吉田拓郎の「祭りのあと」の歌詞に影響を受け、”人生におけるピーク”を作らないよう心掛けるようになったという。この点に関して具体的には、自身が還暦を迎えた際に、自らが手掛けたアーティストを集めて盛大なパーティーをすることも可能な状況だったが、その後”祭りのあと”状態になることを懸念して、それを敢えて実現させなかったというエピソードがある。

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その後、作曲家として舘ひろしと米・ナッシュビルに渡り、「朝まで踊ろう」をレコーディング。
また1978年、スピニッヂ・パワー「ポパイ・ザ・セーラマン」を月光恵亮らと制作して約40万枚を売り上げ、プロデューサーとして初めてのヒット作を生み出した。
また、「オフィス・トゥー・ワン」を辞めることを社長の海老名俊則に直訴。そこで何をしたいか尋ねられると「自分の会社やりたい」と返答し、海老名は「俺が金出すからやれ」と言ったという。
結局海老名が100万円、阿久悠が100万円、そして長戸大幸が100万円を出資して作ったのが、「株式会社ビーイング」となった。(設立:1978年11月1日。なおその後、少しの間結果が出なかったことから、長戸が二人から200万円分の株を買い取っている。)なお、「Being」の名前の由来は、大幸の「大」の「Big」の「B」と、海老名の頭文字「E」から取ったものであるという。

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以後、1980年代半ばにかけてビーイングの下で、WHY、三原順子、LOUDNESS、BOØWY、秋本奈緒美、浜田麻里、TUBEらが次々とデビュー。またさらにその後には、B’z、B.B.クイーンズ、ZARD、T-BOLAN、WANDS、大黒摩季などのあらゆる著名なミュージシャンが誕生し、1990年代以降、ビーイングは日本を代表する音楽制作会社に躍進を遂げた。また長戸大幸は、他のプロデューサーとは異なり世間での認知度はさほど高くないが、音楽的実績から鑑み、事実上日本で最も成功した音楽プロデューサーとなった。

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一方、ビーイング全盛期の1993年、長戸は耳の持病の悪化を理由にプロデューサーを一時引退。またこれ以降、活動拠点を関西に移し、不動産開発を進めると共に、ブルーズから音楽シーンを活性化させた。そして1998年には、関西唯一のメジャーレコード会社・GIZA studioを設立。倉木麻衣やGARNET CROWなどのアーティストをヒットさせた。その後、2007年にビーインググループ代表を升田敏則に委譲。しかし、2016年に企画「d-project」を始動させ、また2019年に第5期WANDSを再始動、SARD UNDERGROUNDをデビューさせるなど、現在も大阪の地から、精力的に音楽制作に取り組んでいる。また2020年10月より、盟友・ばんばひろふみと共に、自身のルーツとなった”オールディーズ”の音楽を紹介するラジオ番組『OLDIES GOODIES』(エフエム滋賀)のパーソナリティーを務めている。

性格・特徴・哲学

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  • 人前に出ることを極端に嫌っている。そのため、公にされている自身の写真は、ごくわずかに限られている。
  • プロデューサー主導でアーティストを売り出すことを信条としている。(企画ありきでバンドを結成させる。)その場合、互いに見ず知らずのミュージシャン同士をシャッフルしてバンドを結成させるケースがほとんどである。そのためB’zをはじめとするビーイング所属のアーティストは、メンバーが赤の他人という状態で活動をスタートさせるケースが多い。(その理屈は、各ポジションに適したプレイヤーが揃うのは天文学的な確率であり、プロジェクトを用意して、そこにメンバーを入れた方が効果的・効率的である、といったものである。)
  • 人間関係における影響や、楽曲に意見しにくくなるなどの観点で、グループ所属アーティスト同士の交流を禁止している。そのため、例えばB’zとZARD、B’zとWANDSなどは、ほとんど直接会う機会がなかった。この文化は2020年代に入ってからもグループに残っている。
  • アーティストは容姿端麗であり若い方が良い、というポリシーを持っており、ビーインググループからデビューするアーティストには、その傾向が顕著に見られる。
  • アーティストや会社などのネーミングに強いこだわりを持つ。ネーミングに関する豊富な知識を持ち合わせている(姓名判断、四柱推命など)ほか、ワードやアイデアをいつも考え、日頃からストックしているという。そしてそれが、豊富なネーミングセンスやビジネスアイデアに結び付いている。
  • 1950年代~70年代のドーナツ盤(レコード)コレクターであり、財団法人(ポップスレコード研究会)まで設立してしまったほどの音楽通。ヒット曲のパターンなどを心得ており、音楽制作にもそれが存分に反映されている。
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B’zと長戸大幸の関係 長戸は”B’zの生みの親”

B’zのギタリスト・松本孝弘、ヴォーカリスト・稲葉浩志は、それぞれプロデューサー・長戸大幸によって見い出され、音楽制作会社「ビーイング」でミュージシャン活動をスタートしている。

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長戸は1981年、当時アマチュアバンド「マクベス」で活動していた松本孝弘を、マネージャーを通じて渡されたバンドのデモテープを聴いたことで、プロのセッションギタリストとして抜擢。
なおこの時のことについて長戸は、B’zがデビューした後のインタビューで「聴いてみてTOTOのギタリスト、スティーブ・ルカサーに似たギターだった。こいつはすごいギタリストだなと思ったんだ。」と語っている。

また、”LOUDNESSに関係する事務所”という「ロッキンf」の雑誌広告を見てヴォーカルスクール「ビーイング音楽振興会」に所属していた稲葉と長戸は、1985年頃に対面。当時ライブハウスでのコンテストで優勝するなどしていた稲葉に長戸が直接声を掛けたものと見られ、長戸は当時の稲葉について、同インタビューで「彼はすごい繊細な感じがあって、髪ももっと長かった。デビッド・ボウイみたいだったよ。」などとコメントしている。

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そしてその後の1988年、自身のバンドを結成したいと思っていた松本に、長戸が「ビーイング音楽振興会」所属時に録音された稲葉のデモテープを紹介し、会ってみないかと打診したことがきっかけで、松本と稲葉のロックユニット「B’z」が結成。
B’zは1990年頃以降ブレイクし、ビーインググループ、そして日本を代表するアーティストとなった。

また長戸は「B’z」のネーミングにも関わっており、その他、主に初期の楽曲へのアドバイス(作詞など)を行った。よって松本・稲葉から見ると、長戸は、プロの世界に導き、「B’z」を結成するきっかけを与え、さらに最初のブレイクまで自らを育ててくれた人物、ということになる。

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B’zはブレイク後、1990年からセルフプロデュースの形を採り、また長戸自身もプロデューサー業を一時引退し、拠点を関西に移すなどしたことで、1990年代以降でB’zと長戸が活動上でどれほどの接点を持っていたかは明かされていない。しかし松本・稲葉共にキャリアの中で、ビーイング所属の女性アーティストのプロデュースを行ったり、GIZA studio所有のライブハウスへの出演を行ったりしており、ビーインググループと相応の連携を取って活動を行ってきたことは、事実であると言えよう。

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なお松本は、長戸らビーイングサイドについて、2018年に出版された書籍のインタビューで

「ビーイングっていうのは長戸大幸さんが制作の人間ですからね。だから、もちろん楽曲のアドバイスや、詞なんかもアドバイスを受けていたと思うけども、強制的に『こういうふうに方向転換しろ』なんて言われたことは一度もないし、ホントにやりたいように今でもやらせていただいていますし、30年間やってきましたよ。」

佐伯明著『ザ・クロニクル』(2018)より引用

とコメントし、グループ側から不本意な活動を強制されたことは一度もない、と明言している。

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一方で、B’zがブレイク以前から、例えばアルバム『RISKY』の制作においてビーイングの自社スタジオを使うという当時の会社の慣習を破り海外レコーディングを敢行するなどしてきた(※当時の松本の哲学として海外レコーディングでノウハウを持ち帰るというものがあった)ことから、セルフプロデュースを手掛ける松本が、長戸らビーインググループ側、または周囲の人間を説得しながら活動を行ってきた、という側面もあると言える。

ともあれ、長戸大幸は2018年発売の音楽雑誌でのインタビューで、

「B’zの2人は長い間現役でやっていますが、彼らは本当に偉いと思いますよ。稲葉君は(中略)ステージに立てば非常に大きく見えるし、腹筋はしっかりと割れている(笑)。同じように、ギターを持ってステージに立つ松本君は誰よりも大きいですよね。彼の場合はゴルファーのように、しっかりと身体がぶれない状態で指だけが動いているという弾き方ですけど、あれはなかなかできるものじゃありませんよ。」

YOUNG GUITAR 2018年8月号より引用

とコメント。また2019年7月にB’zが通算1000公演を達成した際には、松本・稲葉らに、オリジナルのライダースジャケットをプレゼントした。

そしてB’zサイドも、現在もなお著作物のクレジットに「Extra Special Thanks to Daikoh Nagato」と明記するなどしており、敬意を欠かさない。

これらのことから、両者は現在もなお互いにリスペクトし合う様子を見せている、と言えるだろう。

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