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B’zの作曲方法について徹底解説

B'zのレコーディング風景 豆知識
画像出典:B'z公式Facebookの投稿より引用

今回は、ギター・松本孝弘、ヴォーカル・稲葉浩志からなるロックユニット「B’z」の作曲方法の概要について、以下に解説する。

B’zではギター・松本孝弘が作曲、ヴォーカル・稲葉浩志が作詞を担当

「B’z」では、ギター・松本孝弘が全ての楽曲を作曲し(1st AL『B’z』収録「孤独にDance in vain」除く)、ヴォーカル・稲葉浩志が全ての楽曲の作詞を担当している(1st AL『B’z』収録「Nothing To Change」除く、DIGITAL SG「Into Free -Dangan-」はシェーン・ガラースとの連名)。この担当分けはデビュー当初、”自然と決まった”ことであるというが、これまでの各インタビューでは、具体的に以下の理由が挙げられている。

 

松本が作曲、稲葉が作詞を担当するようになった理由

  • ギターを弾く人が曲を書いて、歌を歌う人が詞を書く、という形が自然だったから。
  • 当時、松本が売れているバンドを研究したところ、リアリティのある人たちが売れていると実感し、歌を歌う人が詞を書くというスタイルがふさわしいと考えたから。
  • バンドが解散する理由は”ギャラの配分”が異なることであるケースが大半だ、という松本の認識から、作曲と作詞をそれぞれ担当することでそれを防ぐことができると考えたから。

ちなみにデビュー当時、松本は、アマチュア時代に多少曲を書いた経験を持っていたが、一方稲葉は、全く作詞の経験がなかった。
よって、特に2nd アルバム『OFF THE LOCK』(1989.05.21)までは作詞作業が難航を極め、ディレクターらからの”ダメ出し”が相次いだことなどから、稲葉は当時、レコーディングで大変苦しい想いをしたという。

 

B’zの曲は「曲先」で出来上がる 松本孝弘の鼻歌とアコースティックギターの伴奏の弾き語りから

さて、次に実際のB’zの曲作りについて解説する。

B’zの曲は、曲先(きょくせん)という手法で作られる。

具体的には、松本孝弘がメロディとコードを作り、それを自身の鼻歌とアコースティックギターの伴奏という形で表現するという作業、つまり言い換えると松本の”弾き語り”の状態から、曲作りがスタートするのだ。そしてそれをデモテープに録音して稲葉に聴かせる(もしくは直接聴かせる)、というのが、作曲作業における最初の一般的な工程である。

また、曲はメロディの断片などによって作られるが、ギターリフ主体で作られるものもあれば、「LOVE PHANTOM」(18th SG 1995.10.11)のようにイントロのストリングスアレンジから作られるものもある。ちなみに、「Warp」(12th AL『GREEN』 2002.07.03 収録)はB’zの楽曲としては異例の「詞先」(しせん)方式にて、制作された。

松本は、活動初期や90年代中頃までは、レコーディングに入る前に曲を作って制作現場に持っていく場合もあったが、90年代終わり頃からは、スタジオに入ってから曲作りに取り組む、というケースも増えた。また、特に2010年代以降は、活動拠点の米・L.A.滞在時などに”時差ボケ”で、明け方夢見心地の際、”降ってきた”メロディを録音することが、増えたという。
なお、松本はメロディの普段からのストックは少ないタイプである。(つまり作品制作のために曲を作る、というパターンが多い。しかし近年は、ツアーの練習中に急遽作曲作業を行う、などのケースもあるという。)

 

稲葉浩志がメロディを聴いて作詞に取り掛かる

松本からメロディとコードの提示を受けた稲葉は、そこから、(またはアレンジメントが出来上がっていく中での音から)インスピレーションを得て、歌詞を考えていく。(その際松本から歌詞の内容を指示されることはほとんどないという。但し稀に例外もある。)

デビュー後から90年代は、一度デタラメの英語の歌詞を当てはめて、それを通しで歌ってから日本語の歌詞に書き換えていく、という手法を採っていた。(耳障りの良い、”カドのない”フレーズを残すため。)
しかし2000年代中頃からは、直接日本語で歌詞を書いていくケースが一般的になった。(”カド”は必要、という認識になったため。また、仮詞を入れても結局は日本語の歌詞になり、それが違和感になるため。)

ちなみに稲葉は、ソロ活動の影響もあってか2010年頃から作詞メモをするようになり、日頃から、言葉のストックを持ち合わせるようになった。(2010年代中頃からはスマートフォンにフレーズのメモもするようになった。愛犬の散歩中などにフレーズが浮かぶこともあるという。)
そのため以後は、B’zの楽曲においても、松本のメロディからインスピレーションを得て新たに作詞を行うパターンに加え、言葉のストックと照らし合わせて楽曲のイメージと当てはめるパターンが登場した。

 

編曲はアレンジャーとともに 95年からは稲葉も参加

そしてメロディとコードだけの状態から楽曲に様々な音色を加えていくために、その後、編曲作業がアレンジャーと共に行われる。

B’zは、1st ミニアルバム『BAD COMMUNICATION』(1989.10.21)以降はアレンジャーと松本の共同編曲、16th シングル「ねがい」(1995.05.31)以降はアレンジャーと松本・稲葉の共同編曲、というスタイルを、主に採用してきた。(10th アルバム『Brotherhood』(1999.07.14)など例外あり。)なお「ねがい」では、デビュー当時からの制作体制「B+U+M」を解体して編曲に稲葉が初めて参加した(”B’zは2人である”ということに立ち返った)ことから、松本はこれを後に”ターニングポイントだった”と振り返っている。

具体的には、90年代前半には松本とアレンジャー・明石昌夫が中心となって編曲を行い、また90年代後半以降は各アレンジャーと松本・稲葉両者が意見を交わしながらアレンジを進めてきた、と言えるだろう。(一方で、20th シングル「Real Thing Shakes」(1996.05.15)、11th アルバム『ELEVEN』(2000.12.06)などでは海外の外部プロデューサーを立て、作業を一任することで彼らからノウハウを吸収したこともあった。)
また、アレンジについてディレクターやサポートメンバーからの意見が反映されることも、多々ある。さらに、楽曲によっては複数のアレンジャーに編曲を依頼し(13th AL『BIG MACHINE』 2003.09.17 では、初めてコンペ形式が採用された)、より良いアレンジを作品として採用する、というケースもあった。(また中には、複数のアレンジャーが制作に関わった楽曲「Calling」(22nd SG 1997.07.09)などもある。)

松本が楽曲の肝となるイントロなどを作ることもある(9th シングル「ALONE」 1991.10.30 など)が、一方で、曲調全体がアレンジャーの影響を受けることももちろん多い。
そのためもあってか、B’zのアレンジャーは、結果的に数年周期で変更されてきている。

ちなみに、松本曰く、B’zの制作現場においては”とりあえず何でも試してやってみる”ということを、一貫して行っている。これは、楽曲のアイデアを試す前にそれを否定してしまうとメンバー間のコミュニケーションの問題も起こり得る一方で、アイデアを実際に形にすることで、それまで個人で”イマイチ”だと思っていたことでも”良い”と感じられることがある(発見がある)というメリットがあるためである。(具体的には、各アイデアを試し、スタッフも含めた多数決で決めることがあるという。)

また、アレンジを加えていく中で、歌詞の音数を減らしたり、メロディラインや小節数を変更したりといった細部の変更も行われる。この際、松本と稲葉は、明確な線引きがない中であっても、互いに意見を交わすことができるという。

このアレンジメントの後に、ダビング(レコーディング)、ミキシング、マスタリングなどを経て、やがてB’zの楽曲は完成へと向かっていく。ちなみに松本、稲葉は、それぞれのダビングに立ち会わないケースが多い。近年松本はエンジニアの小林廣行と、稲葉はヴォーカルディレクションの寺地秀行と、テイクの出来栄えを確認しながら作業を進めているものとみられる。

以上が”B’zの作曲方法”の概要である。いかがだっただろうか。

”稀代のヒットメーカー”の制作作業は、驚くほどシンプルでありながらも、時期に合わせて形を変え、最適化されてきた。私たちも、彼らのスマートな仕事ぶりから、沢山のことを学べるのではないだろうか。

「B’z」は松本孝弘と稲葉浩志という人物の賢明さや誠実さ、さらには周囲の人々の勤勉さなどがあって初めて成り立つ、ということの一端が、お分かりいただけたであろう。

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